安藤の丸善読書録

丸善で買った本の感想を書きます。

「むらさきのスカートの女」 今村夏子 まだまだ暑い感想

こんばんは、まだまだ暑いですね。

前回はむらさきのスカートの女に注目して感想を書きましたが、今回は主人公・黄色いカーディガンの女に注目していきたいと思います。

・自意識の表出の少なさ

まず、先にむらさきのスカートの女について書いた理由について説明させてください。

それは、この作品を読みきった後に一番印象に残るのは間違いなく主人公ではなく、むらさきのスカートの女だからです。

確かに他の作品においてもそういうことはあります。主人公よりいぶし銀な脇役に目が向いたり、ヒロインに目が向いたり、素晴らしい作品ならば起こりうることだと思います。

しかしこの作品における、むらさきのスカートの女の立ち方は、もはやその域ではありません。物語全体がほぼむらさきのスカートの女でできています。

むしろ、主人公いたっけ?と読者に思わせるほどなのです。

それはむらさきのスカートの女のキャラ立ちというより「主人公の不在」と言えます。

前回の記事で書いたように、むらさきのスカートの女自体には強烈なキャラクターはありません。

むしろそれを見る主人公の強烈な「見方」によってあたかも興味深い人物のように描かれ、読者もむらさきのスカートの女に興味を抱いてしまうのです。

なぜそのようなことが可能かと言えば、主人公の自意識の表出が極端に少ないからではないかと考えます。

主人公は作中でほとんど自分から自分の身の上の話をしません。

というか、人と話すシーン自体ラストのむらさきのスカートの女との会話と上司との会話以外ほとんどなかったと思います。

人と話すシーンがあまりない以上、読者が主人公のパーソナリティを把握するすべは語り方や語る内容を読み解くしかありません。

しかし主人公が語るのはむらさきのスカートの女のことばかり。むらさきのスカートの女を語るためにおこぼれ程度の自分に関する情報を織り交ぜるくらいです。

ここまで読んで、いやそういう作品他にもいっぱいあるよ、と思ったあなた、確かにそうですよね。

主人公の顔が見えない作品はほかに山ほどあります。しかし、この作品では感情の欠落がさらに見えなさに拍車をかけています。

どんなに受け身な主人公だろうと、必ず嫌悪感や怒りや悲しみによって自意識の表出をします。自分語りをしない主人公はしばしば明の感情ではなく、暗の感情によって物語に起伏をつけるものです。

なぜなら暗の感情は出すものではなく、出てしまうもの。それが自然なことなのです。

しかし、この作品の主人公は暗の感情すら表出しません。というか、表出すべき感情すら持ち合わせていません。

あれだけ執着していたむらさきのスカートの女が去ってしまった後も、じたばた悔しがったり悲しんだりすることなくただしんとしてその帰りを待ちます。

その淡々とした様子は悲しみを堪えていたり、自分をごまかしていたりするのとは違って見えます。

感情が欠落しているのです。

私はこの作品を勝手に「コンビニ人間」の先だと位置づけています。

どちらも素晴らしい作品で比べることなんてできないし互いに違った良さがあるとは思いますが、無気力・無感動については「コンビニ人間」よりこの作品が先っちょではないかと思います。

コンビニ人間」では主人公は無感動に見えてコンビニという一点に関しては並々ならぬ感情の起伏を魅せます。知らないコンビニで棚を整理し出すところなんて狂ってますが、狂っているということはまだ感情を持ち合わせているということでもあります。

心があるから痛いんだよね。

しかし、この作品において主人公は終始同じテンションです。だからこそ読者は振り回されることなくラストまで安定感を保ったまま読み終えることができます。

そして読み終えた後も感動したり感情が消耗したりすることなく、冷静におもしろかったなと感じます。

一見すると良いのですが、主人公だけをじっくり眺めてみると途方もなく異常であることに気づきます。

主人公は終始、むらさきのスカートの女を冷静に定点観測している学者のようです。

そしてその主人公の姿は私たちの無感動を百倍濃縮したようにも見えます。SNSで誰かが痛い目に遭う動画をみて笑いも泣きもせずに👍を押したり、道端で喧嘩をしている人達がいたら止めに入ることなく動画を撮りはじめたり、芸能人のゴシップ記事を好んで読んだり...

主にスマホとネットを介して広がるとてつもない無感動と無責任な好奇心。その先にあるのはもしかすると、この作品の主人公の迎えた結末かもしれません。

・見る側から見られる側へ、繰り返される消費

そう、そしてラストでは今まで見る側だった主人公がついに小学生たちから見られる側にすり替えられてしまいます。

しかしそれはある意味救いのようにも感じられます。

主人公は職場でも恐らくは無口すぎて存在を認識されていない状態だし、近所づき合いや友達もありません。

つまり、孤立しています。その孤立はむらさきのスカートの女の監視という歪んだ発露へと向かいます。

主人公は孤独を愛しているのか?自ら孤立を望んでいるのか?

恐らくは違います。彼女はむらさきのスカートの女に並々ならぬ好奇心を注ぐこと、友達になりたいという希望を持つことにより何らかの形で世界と接触しようと試みているのではないでしょうか。

(そういう文脈で、主人公はむらさきのスカートの女を近所で孤立している仲間として捉えていたかもしれません)

そんな試みも失敗に終わり、むらさきのスカートの女は事実上去ってしまいます。

いよいよ主人公は世界との繋がりを断たれてしまいました。しかしそんな時、懐かしい小学生の遊びが復活するのです。

そう、主人公はついに「黄色いカーディガンの女」として可視化されるに至ったわけです。(もし幻想でなければですが)

このラストは一体何を指しているのでしょうか?

私は現代的透明人間に対する救済という側面と、皮肉的な好奇心の消費という側面があるのではないかと思います。

まず、現代的透明人間は無感動なためにどんどん人に認識されなくなっていく人たちです。馴染みのある言葉で言えば、サイレントマジョリティー。感情を発露しないために人から認識されなくなり、人から認識されなくなると孤立を深め、余計に感情を発露しなくなる。そんな人たちにとって、たとえ安い好奇心の対象としてでも、誰かから注目されるということは一種の救いだと思います。なぜなら不本意な形であろうと、共同体の一員として認識されるからです。透明でなくなることは彼らの孤独を緩和するのではないでしょうか。

一方でそれは多分に皮肉的な要素を含んでいます。なぜなら、無感動に共同体の中の道化を消費する側だった彼らが、今度は道化になり消費される側になるからです。

そしてその循環は決して共同体の中の善からなる意思によって作られるのではなく、無感動を満たすための安い好奇心によって作られています。

それが示すことは、道化になっても彼らの孤独感が満たされることは一生ないということです。

たとえ道化として認識されたとしても、彼らのことを心から知りたがる者は周りにはいません。

なぜならみんなが無感動の循環の中にいるからです。他人に対してもまた、感動することなどないのです。

そして感動を伴わない接触は誰のことも本当の意味では救いません。こうして消費する側もされる側も孤立を深め続ける社会になってしまうのです。

ちゃんちゃん。

「むらさきのスカートの女」 今村夏子 冷静な感想

ついに夏が終わりますね。

グッバイキモい虫、キモい夏。

「生のみ生のままで」読み終えました。言葉にならない情念が湧いている状態です。読み終えた後の手応えは確実にあったのに、しばらく更新できなさそうです。

また言葉にできたら言葉にします。

今回は今村夏子さんの「むらさきのスカートの女」(朝日新聞出版)を読みましたので感想を書きます。ネタバレ多々ありです。ご注意ください。

【基本情報】

あらすじ:

主人公の「私」は町内のちょっとした有名人「むらさきのスカートの女」と友達になりたい。彼女はむらさきのスカートの女の行動を逐一観察し友達になる機会を伺っていた。ある時、むらさきのスカートの女が失業中であることに気づいた彼女は、むらさきのスカートの女が同じ職場へ就職するよう仕向け成功。むらさきのスカートの女と彼女は晴れて同じ職場で働くようになるが、はたして二人は友達になることができるのか....

語り:

主人公・権田(自称「黄色いカーディガンの女」)

構成:

主人公による一人語りで、時間も過去から現在へ素直に流れていきます。

【特徴】

・ポップで軽快な語りとは裏腹に怪奇的な内容

この作品、主人公がひたすらむらさきのスカートの女のことを観察し続け、むらさきのスカートの女に関する情報や観念だけを語る内容となっています。

主人公のむらさきのスカートの女に対する眼差しは異様なほど熱いのですが、その語りはポップでクスッと来るような軽快さを持っています。

例えば、主人公が自分のことをむらさきのスカートの女と対比して「黄色いカーディガンの女」と例える場面。

まるで大喜利のような言い回しの軽さに笑いを誘われます。

しかし、主人公のむらさきのスカートの女に対する眼差しの熱さはポップの域を通り越しており、もはや怪奇的とも言えます。

例えば、主人公はむらさきのスカートの女がいつからいつまで有職で、いつからいつまで無職だったかを観察により割り出し、メモに残しています。

さらに、後々むらさきのスカートの女が職場の上司と不倫関係を結ぶようになると、上司がむらさきのスカートの女の家に泊まった日も詳細にメモに残し、ついには毎週決まって会う日を割り出します。

そのようなことは、定職を真面目にこなしていては勤まりません。主人公は職場から無断で抜け出したり、遅刻することによりむらさきのスカートの女中心の生活を作り上げています。

この熱さは一体どこから湧くのか?なぜむらさきのスカートの女にそこまで執着するのか?という点は後々考えるとして、ここまでの熱はもはや怪奇的と言えると思います。

・「むらさきのスカートの女」という存在感の魅力

自分の子供時代を振り返ると、確かに近所にはいつのまにか呼び名を与えられ、好かれるでも嫌われるでもなく注目されシンボル化されてしまう人たちがいました。

おそらくは、退屈な日常のなかでランダムに選ばれた好奇心の的であったのではないかと思います。

それはいじめのような排除とは違い、近所のテーマパーク化というようなおもしろさの発見と内包ではないかという気がします。

(もちろん、勝手に不本意な呼び名を与えられた側からすれば、それは排除の一端であるととることもできるかと思います。)

つまり、誰もむらさきのスカートの女自身に興味があるわけではなく、むらさきのスカートの女がむらさきのスカートの女であること自体に勝手に価値を見出しているのです。

それは小学生たちの反応が一番鮮やかに示しています。小学生たちはじゃんけんで負けた人がむらさきのスカートの女に素早くタッチするというゲームを編み出します。

これではまるでむらさきのスカートの女が面白い遊具のようです。それは一歩ニュアンスを間違えると完全に排除の方向へ向かう行動ですが、そうではありません。

ある時タッチの勢いによりむらさきのスカートの女が手元のリンゴを地面に落としてしまうのですが、小学生は動揺しながらも「ごめんなさい」としっかり伝えます。

小学生たちは決してむらさきのスカートの女を邪険に扱って貶めたいわけではなく、その存在に純粋なおもしろさを感じそのおもしろさを尊んでいることが感じられます。

主人公以外の人々にとって、むらさきのスカートの女は近所の安い興味をそそるシンボルの域を超えないのです。しかし...

・主人公のストーカーの域を超える執着、なぜ???

近所の人たちにとってはただの興味を安いそそるシンボルであるむらさきのスカートの女。しかし主人公にとっては違います。

主人公がむらさきのスカートの女に抱いているのは興味ではなく執着。むらさきのスカートの女を観察して得られるだけの情報を得て、なおかつ接触の機会を作るため巧妙に立ち回ります。

そこまでして友達になりたくなるような魅力が、果たしてむらさきのスカートの女にあるのか?と、訝ってしまいます。

おそらく答えはノー。現実のむらさきのスカートの女は全くむらさきのスカートの女的普通を保って生活しているだけで、びっくりするような興味深さを持っているわけではありません。

つまり、主人公の頭の中でむらさきのスカートの女は勝手に興味深く、また特別な存在になっているだけなのではないでしょうか。

一見、めちゃくちゃ奇妙なこの現象、しかし私たちの日常にもたくさんあるよねと思わざるを得ません。

例えば私は恋人のことが大好きで、会うと一挙手一投足を観察し、ビール缶の開け方に趣きを感じ感動したこともあるのですが、先日よく知らない人が道端で同じ動作で缶を開けているのを見て勝手にガッカリしました。

特別ではなかったのか!と気付いてしまったのです。

美術館で現代美術の作品などを見ていてもあり得る事なのですが、例えばただのペットボトルだとしても美術品として展示されていたらなんとなく美点を探してしまうことって有りませんか?

物は物自体でもとから価値があるのではなく、見る側の姿勢が勝手に価値をつけてしまう場合がほとんどだと思います。

人に対しても同じで、こう見たい、面白いはずだ、という見る側の期待感が相手の価値を勝手に作り出すことがたくさんあるのではないでしょうか。

主人公の異様な視線の熱さを、私はそう解釈しました。

しかし一点気になるのが、ただ友達になりたいという動機がなぜそこまで温度を上げられたか、という点です。

これは主人公本人に迫る切り口ではないかと思うので次回にとっておきます。それでは近いうちに。

「樹海考」村田らむ 偏った感想

お疲れ様です。相変わらず暑いですね。

もう脇汗パラダイスです。はやく秋に、それが無理ならせめてお盆になって欲しいですね。

さて、前回は綿矢りささんの「生のみ生のままで」のことを記事にしたのですが、連日職場に本を置いて帰ってしまい続きが読めていません。

退勤間際の速さと身軽さにかけてはオリンピック選手にも負けない私です。続きがきになるのでいつかは必ず書き終えます。

そしてほぼ同時に読み始めた村田らむさんによる「樹海考」(晶文社)を読了しましたので感想を書きます。

まずは基本情報ですが、

体裁:ノンフィクション

構成:樹海の観光地としてのライトな魅力と、自殺スポットとしてのディープな魅力(とあえて言いましょう)を絶妙なバランスで紹介。「樹海では方位磁針が狂う」「樹海には村がある」などの安い都市伝説をバサバサ斬りながら、樹海に実際に存在する宗教関連の建物や樹海に通うディープな人々などB級のその先に光を見せるような希望に満ちた展開をしています。

この本の私的おすすめポイントは以下の通りでした。

【自然豊かな樹海】

樹海と聞くと実際に足を運んだことのない私のような人は真っ先に「自殺」という連想をすると思います。少し前に海外のユーチューバーが実際に樹海で死体を撮って動画にしたことで物議を醸していましたが、海外に知れ渡るほど「自殺」イメージに取り憑かれた樹海。

しかし著者の村田らむさんは長年、仕事として樹海に足を運び樹海の多面的な魅力を知り尽くしています。中でも私がびっくりしたのが自然豊かな樹海という側面です。

風穴や洞窟があり、観光客向けの遊歩道があり、子どもの頃に受けた自然教室を思い出させるライトさ。苔むした木々の様子など読んでいて思わずトレッキングに出掛けたくなるような快活さがあります。マイナスイオンがすごそう。

樹海というタイトルに魑魅魍魎を求めてお買い上げしたよこしまな身としては頰を張られたような衝撃ですが、思いがけず日曜朝の旅番組を見たような爽快感を味わうことができ満足です。あと普通に観光に行きたいなぁと思いました。

【樹海の死体】

でもやっぱりこれです。樹海と言うからには自殺、自殺と言うからには死体です。なぜ人は樹海で死にたくなるのか?猫が死に際に山へ行くようにそれはどこか神秘的で変えがたい本能を感じさせます。この本の中では直接死のうとしている人を捕まえて「なんで樹海なんですか?」と聞くような無粋なことはありません。しかし度々登場する死体の様を見ていると、なんだか腑に落ちる感覚があるので不思議です。例えば生活用品を辺りに散乱させている死体、紐の結び方についての本を残した死体など、生きていたことと死んでしまったことの間に全く摩擦がないように思えます。まるで生きる延長で死んだかのような、それは樹海だからこそ許される緩やかさなのかな、と感じます。

例えば街中で倒れてそのまま死ぬとなると救急車に運ばれ、治療を施され、無理と分かれば家族が呼ばれ、悼まれながら安置され、葬儀場に運ばれ、葬式を伴って焼かれ、納骨され、というように結構大変です。しかし、樹海で死ぬとなるとそういったプロセスを全てすっ飛ばして1人静かに土に還るということ。そこに至るまでにきっと並ではない悲しみや苦しみを経験したからこその樹海でしょうが、街中で死ぬよりはるかに厳かな死を感じさせるし、そういうところが人々の心を捕らえてやまないのかなと感じさせます。

【美しさすら感じさせる死体】

この本には多くの死体が登場し、トチ狂った死体ファンも登場します。その死体ファンのKさんはしっかり腐った死体が好きだと語るのですが、虫嫌いな私にとっては腐乱は敵、そうなるとやはり白骨化死体に美しさを感じます。頭蓋骨の歯に治療痕がある歯があると書いてありましたが、それはそれでいいなと思いました。

ユーチューバーの事件の時は、死体を面白おかしく晒しあげるというところが思慮に欠けていたのかな、と思いますが、生きているにしろ、死んでいるにしろ、美しさを見出すことはタダかなと思います。

死体になった誰かからすればほっといてくれという気持ちかもしれませんが、生きていたことを一番背負っているのが肉体ですから死体を美しいと感じることが生きてる人間にとっての人生賛歌になるのではないかなと身勝手に思います。

というところで今日はおしまいにします。

次こそは「生のみ生のままで」を読み終えていることでしょう。ではまた近いうちに。

「生のみ生のみのままで<上>」綿矢りさ 感想

お疲れ様です。暑いですね。今日ハッとしたのですが、すでに蝉が鳴き始めていました。

虫嫌いな人間からすると夏は虫テロが多発する最悪な季節ですが、今回はそんな虫のグロさとは全く関係のない綿矢りささんの「生のみ生のみのままで<上>」(集英社)を読んだので感想を書きます。

実はまだ4分の3ほど読んだどころなのでまた読了したら加筆したいと思います。

この作品、前回の「つみびと」と違って今のところ構成がとてもシンプルです。一人称語り、時系列も冒頭1ページ以外は過去から現在へ素直に流れています。

私自身綿矢りささんの他作は2作品しか読んだことがありません(「勝手に震えてろ」「生姜の味は熱い」)が、他作も素直な構成でした。

そういう意味では物語の起伏や描写で魅せる方なのかなと思います。

そして問題の冒頭1ページなのですが、おそらく物語が全て語り終えられた現在に書かれているのですが、

「むしろ一体いつ忘れられる?今現在こそが思い出のよう。私はまだ君と過ごした短すぎるひとときに、いつまでも瓶詰めにされたままだ。」p.3

...と、意味深です。ということは、あの2人は別れたのでしょうか?とても興味をそそられる導入です。

さて、中身ですが、主な登場人物は主人公の逢衣、その恋人・颯、颯の幼馴染の琢磨、その恋人・彩夏。全員同い年の25歳。お盆休み、旅行先の秋田のホテルで偶然にも古い幼馴染の颯と琢磨が遭遇するところから物語が始まります。2組ともカップルで旅行に来ているのですが、成り行きからダブルデートの要領で1つの部屋に集まり、一緒に酒を飲んだり、海へ行ったりくっそリア充します

逢衣はホテルのロビーで彩夏と出会った時から、ただならぬ地雷臭を感じます

というのも彩夏は洗練された立ち姿でサングラスをかけ、琢磨と颯、逢衣がにこやかに挨拶を交わす中、終始無言で逢衣を凝視しているのです

ネタバレですが彩夏はこの時、まさに逢衣に一目惚れしていました

そんなことを知るはずもない逢衣は彩夏のことをとんでもなく感じの悪い女だと感じます

「つみびと」山田詠美 虐待しているのは誰かーエモい感想

お疲れ様です。虫が多くて嫌になりますね。

仕事辞めたい。

さて、山田詠美さん著「つみびと」の感想の続きですが、今回は私的な感情を多めにいきます。

それは違うよ!という解釈違いがあればコメントでお願いします。

まずこの作品の肝である問いかけは

「ネグレクトを誰が責められるか?(誰に責める権利があるか?)」

と、

「つみびとは誰か?」

の2つではないかと、読了した今感じています。

<ネグレクトを誰が責められるか>

社会が悪い、他人が悪い、母親は悪くないと言うのではありません。もちろん2人の子どもを死なせてしまった蓮音には一生償いきれないほどの罪があると思います。物語の中でも、だからこそ実刑がくだり、蓮音は漏れなく社会の批判轟々に晒されています。それは法治国家においては当たり前であり、仕方のないことでしょう。

しかし、なぜ事件は起きたか?ということは、決して蓮音1人の問題ではないことが読み進めるうちわかります。むしろこの作品は琴音を軸に話が展開するので、琴音に多少なりと責があることは最初から示唆されていますが、どうやら琴音だけでもないようなのです。

蓮音は前回の記事で書いたとおり、孤独な人です。困難に直面しても周囲に頼る術を知らず、自分だけではどうにもならないことをがんばって、がんばってついにどうにもならないと分かりどうでもよくなってしまいます。その不器用さを生み出したのは琴音の不在から来る家事育児の重労働であり、がんばれば道は開けると頑なに唱え続ける隆史であり、蓮音の頑張りに気付かなかった、気付いても無視をした周囲の大人たちではなかったでしょうか。

全く話は変わりますが先日ツイッターでこんなアンケートがまわってきました。(記憶のため正確ではありません)「学生時代以下のうち何個のことに当てはまりますか?」続く項目は

・学費の一部、全部を自分で支払っていた

・携帯代などを自分で支払っていた

・実家に金を送っていた

以上の項目のうち、全く当てはまらないか、1つ当てはまるか、2つ当てはまるか、3つ当てはまるか

というようなアンケートでした。

私が見た時点で何千人もの人が回答したところでした。

さて、どのような比率になっていたと思いますか?

全く当てはまらないと、1つ当てはまるで全体の約9割、2つ以上当てはまる人は全体の1割でした。

3つ当てはまる人だけで言えば全体の5パーセント、100人に5人というところです。厳密な調査とは言えないですが、まぁ少数派であることに変わりはないでしょう。私は学生時代この少数派に食い込んでいました。周りを見渡しても親の仕送りでリッチな暮らしをしている人ばかり。友達とカフェでお茶をし、やがては親の金で留学。かたや私はバイトと大学をチャリで往復し、学食の500円のラーメンがご馳走、ひどい時には電気代と水道代で究極の選択を迫られるような生活ぶりでした(水道を選びました)。そしてリッチピープルには私の暮らしぶりは見えないようで、ある時何気なく自分で学費を捻出していることを話すとリッチな学生に「聞いたことない!かわいそう!」とお言葉を頂戴しました。リッチピープルには見えていないのだということを痛感した出来事でした。1割じゃそりゃあ見えないよな、と今になり納得です。そう、大概の人は人の不幸や苦労には気づきにくいもの、私だって誰かの苦労を見逃し、あまつさえ「かわいそう!」と思考停止してしまっているかもしれません。その誰かは幸せそうに見えて、苦労なんて知らないように笑っておどけている蓮音かもしれないのです。

ネグレクトをする人の神経を疑う

ネグレクトするくらいなら私に子どもをくれー

本気でしょうか。ネグレクトをした人の人生全てを背負った上で子どもを死なせない自信があるのか、その自信はあなたの人生から湧いて出たものではないのか、と思うのです。

ネグレクトを責められる人はいないのではないか、なぜならネグレクトした人をあなたも私もネグレクトしているから。

他人に変わることは出来ない、他人の罪を正すこともまた出来ない。ポキっと折れそうな誰かを、誰かの苦労を感じ取れる想像力が求められているのではないか、自分もそうありたいしそういう人が増えるといいなと感じました。すっげぇ難しいけど。

<つみびとは誰か>

この作品を読んでいると女性目線からの語りが多いこともあり、女性の私なんかは隆史や伸夫に対してついイライラが止まらなくなります。なんだこいつはー!こいつさえ良識があればー!と思ってしまいます。出来るだけ自分とは立場の離れた誰かのせいにして安心したいという気持ちが働いているのでしょう。しかしそれは全く的を射ない怒りです。

少し前にハンス・ロスリングさん他による「ファクトフルネス」という本を読みました。この本は私たちの「現実」に対する数々のバイアスを分析的に紹介してくれる稀有な本でとても面白いのですが、数あるバイアスの中でも「犯人探し本能」というバイアスは私にとってあるある!と言わざるを得ないものでした。犯人探し本能というのは、何か良くないことが起こった時に真っ先に誰が犯人かを追求しようとしてしまう思考回路のことです。

例えば幼い頃、家の床にある片付け忘れのレゴを母が踏んでしまった時など、母はよく大声で

「もーーーーうっ!!!誰よーーーーっ!!!」

と叫んでいました。

そして静まり返った子どもたちを見てこう言うのです。

「ま〜た、犯人がいないっ」

私はこの2つを飽きるほど聞いて成長しました。そして私が飽きているのに飽きもせず「もーーーーうっ!!!誰よーーーーっ!!!」「ま〜た、犯人がいないっ」を繰り返す母を見て、子どもながらにこう思っていました。

「犯人を見つけたところでどうなるっていうんだ...」

もちろんただ怒られたくなかっただけですが、この気持ちはファクトフルネスによって思いがけず合理性を帯びてしまったわけです。

そう、犯人を見つけたって本当の解決にはならない。もちろんレゴくらいの話ならば犯人がしっかりお片づけすればいいだけの話です。しかしそうはいかないことの方がはるかに多い。罪を誰かになすりつけて終わらせるのではなく、犯人はいないと考えた上でどうすれば目の前の問題を解決できるのかと考えるほうがよほど建設的なのです。だからこそこの作品につみびとはいない、と考えます。蓮音は確かに罪を犯しました。しかし産まれながらのつみびとはいません。つみびとを生み出さないためにネグレクトがいかにして生まれ、いかにして放置され続けるか、私たちはこの作品を通して何度も目撃する必要があるのではないかという思いに駆られます。

「つみびと」山田詠美 冷静な感想

猛暑が続きますね。もう息を吸うだけでお給料ください、というヤバイ日続きですね。仕事やめたい。

さて、はじめての記事ですが山田詠美さんの「つみびと」(中央公論社)の感想を書いていきます。

感想と言っても実はまだ読了していません。p.270まで読みましたので4分の3というところでしょうか。

しかしパッションが溢れたので感想を書きます。

読了した後また改めて振り返りたいと思います。

では、読んでいきましょう。

<基本情報>

帯文 : 灼熱の夏、彼女はなぜ幼な子二人を置き去りにしたのか

帯文からかましますね、好戦的です

体裁 : フィクション

新聞に連載されていたということでノンフィクションかと思いきやフィクションです、しかし帯文の下に小さくある「ノンフィクションでしか書けない<現実>がある」という言葉がドンピシャなリアリティー溢れる作品です

あらすじ :

幼児2人が灼熱の夏の部屋に置き去りにされ、ついには死んでしまうという痛ましい事件が起きた。置き去りにした犯人は母の蓮音。蓮音は自首し、刑務所へ。この事件は大々的に報道され、蓮音は世間で「鬼母」と呼ばれ批判に晒される。ちょうどその頃、蓮音の幼少期に彼女を捨てて家出した母・琴音の家には報道陣が詰めかける。あなたも娘を捨てたんですよね、という報道陣の言葉から琴音は過去の自分の責任をただしていく。それは親子3代に渡る記憶を紐解くこととなる。

登場人物 :

琴音...蓮音(2人の子どもを置き去りにし、逮捕された母)の母。44歳。2人の子ども(桃太、萌音)から見ると祖母。蓮音が幼い頃に夫・隆史との生活に耐えられなくなり蓮音とその妹、弟を置いて家出した。幼少期に実の父親からは暴力を、継父からは性的虐待を受けていた。そのことが主な原因となりリスカを繰り返し精神的に問題を抱えるが、信次郎と暮らす現在は比較的安定していた。が、蓮音の事件をきっかけに取り乱しながらも丁寧に過去を振り返る。

蓮音...2人の子どもを置き去りにし死なせ逮捕された張本人。23歳女性。幼少期に琴音に置き去りにされ、以来隆史が再婚するまで弟と妹の世話をほぼ1人で行った。信念ばかりで何もしない隆史や面倒ごとを避ける周囲の大人の態度に物申す前に疲弊し、自分がもっとがんばらなくてはという強すぎる責任感が身についた。桃太と萌音の子育てで困難に直面しても周囲に助けを求めることなく自分を責めながら1人でがんばり続け、とうとう逃げ出すように子供を置いて出かけるようになる。刑務所に入ってから自分の人生を回顧する時間を得て、行きつ戻りつしながら自身を見つめる。

桃太...蓮音の息子、萌音の兄。4歳。桃太郎にちなんで桃太と名付けられた。4歳ながら祖父隆史の男は泣いてはいけないという教えを守り、辛い時でも涙をこらえる強さと子育てで手一杯になり感情が不安定になる蓮音を気遣う優しさがある。蓮音に対して従順で、純粋な親愛感情を抱いている。周囲の大人を冷静に眺めており、蓮音が家に帰ってこなくなった理由を直感的に恐らく理解している。

萌音...蓮音の娘、桃太の妹。3歳。モネの睡蓮にちなんで萌音と名付けられた。桃太とは対照的に、感情をこらえたり、言葉を選んだりすることはなく、泣きたい時に泣き笑いたい時にはとくに理由がなくとも笑い、天真爛漫である一方、蓮音を滅入らせることがしばしばある。蓮音によれば言葉の発達が遅れている。桃太の洞察によると、それは蓮音が子連れの友人との交友を絶ったことに起因する。

...あとは読んでみてください。

構成 : 3つの視点(母・琴音/一人称、小さき者たち/三人称、娘・蓮音/三人称)が1章の中で1回ずつ入れ替わる

※p.270現在(最後に構成のどんでん返しがある可能性もある為)

時間軸 :

母・琴音 / 起点は桃太たちの死が大々的に報道され家に報道陣が押しかける現在。琴音によるなぜ事件は起こったかという自問・自責と信次郎への語りをきっかけに次第に琴音の過去を幼少期→少女期→現在という順に辿る。現実的には現在→未来へとうつる。

小さき者たち / 起点は桃太の名前の由来である昔話桃太郎にちなんだ桃太の思い出(過去)。置き去りにされ次第に朦朧とする意識の中で桃太が思い出す出来事(恐らく順不同)を現実的には過去→現在(死)という大枠の中で辿る。

娘・蓮音 / 起点は刑務所にいる現在。蓮音の刑務所での回想が最も幸せだった音吉との出会い→幼少期→少女期→離婚→結婚直後というように行ったり来たりを繰り返す。現在の描写が少ない為現実的な時間軸は曖昧。恐らく現在→未来へとうつる。

私的考察ですが以下の点が特徴的だと思いました。

<エグいほどのリアリティー

というのも、冒頭1ページ読めばわかるリアリティー。こんな事件、確か昔あったよなぁと既視感を抱かせる設定の数々。例えはネットでネグレクトを調べればいくらでも出てくると思うので省きます。それだけ現実とのリンクが強いです、ちょっと目を覆いたくなるほどに。

登場人物の持つ設定や展開のリアリティーはもちろんですが、作品を陰ながら支えるディテールがえぐいです。例えばメディアの「鬼母」という比喩。絶対どこかの週刊誌が言ってましたよね、というほどしっくりくる言葉です。しかし余談ですが読み進めていくと蓮音が少なくとも最初は鬼母ではないことが分かっていきます。(というか、子どもを殺してしまった現在でも彼女は鬼母ではないのですが。)そしてさらにリアリティー溢れるのはなんと言っても子ども2人の死に際です。桃太は体が動かなくなっても意識がしっかりしていて、先に生き絶えた萌音の死体に蛆虫がわく様子を眺めています。それまではふわふわと記憶を前後させ自分なりに家族を語っていた桃太の何気ない視線が物語の緊張感をグッと上げます。

<「血」理論に対するアンサー>

虐待は連鎖する、淫乱の子は淫乱など世の中には数え切れないほど「血」理論がありますが、この作品はその理論をもとに始まりながらも、徐々に覆していく流れを感じさせます。例えば蓮音が、自分は与えられていない愛を子どもに与えようと奮闘する様子。一方の母・琴音は愛を与えることを断念し蓮音たちのもとから逃げてしまいます。

そして物語終盤、琴音は自分と蓮音の何が違うのか、という問いに辿り着きます。2人のしたことは一見同じように見えます。しかし琴音にはそれでもなお蓮音の気持ちが理解できません。なぜならふたりは圧倒的に違うからです。琴音は自分のために逃げる、という選択をしました。しかし蓮音はもう逃げるしかなかったのです。「血」ではなく、母たちの絶え間ない実務的努力により支えられている愛情。出来ないなりにもがんばろう、がんばろうと必死になる蓮音の努力は結局実を結ばないわけですが、少なくとも蓮音と琴音は全く違うということを印象付けます。

<ワンオペ育児の困難さと家という観念からくる人々の無関心さ、幸せ至上主義>

これまた蓮音を追うとよく分かるのですが、蓮音は幼少期の弟たちの世話からすでにワンオペ育児を迫られています。自らも幼いのに弟たちの糞尿の処理をしています。着るものにこだわる暇もなくいつも薄汚れた服を着ている弟たち。しかし大人たちは全く気づかないフリです。家という観念の中でDVやネグレクトをしかるべき人に見つけてもらうことの困難さを十分に伝えてくれます。 これはもちろん、桃太たちにとってもそうです。1枚の壁を隔てた向こうに今にも死にそうになっている兄妹がいたとしても誰も気づくことができない。 そしてその見えなさに拍車をかけているのが蓮音の幸せ自慢ばかりのブログや、幸せしか見せてはいけない、不幸は格好悪いという幸せ至上主義です。幸せな話しかできないからこそ、他人が不幸であることに対する気づきが鈍り、目の前にボロボロな服を着た子どもがいても誰も救いの手を差し伸べない、家という観念が人々を他人に対して無関心で無責任にしてしまい、さらに幸せ至上主義が家の問題にベールをかけてしまっていることをうまく風刺していると思います。

というところで今日はおしまいにします。

他にもたくさん魅力はありますが、それはエモい感想に書きたいと思います。

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では、また近いうちに。