安藤の丸善読書録

丸善で買った本の感想を書きます。

「つみびと」山田詠美 虐待しているのは誰かーエモい感想

お疲れ様です。虫が多くて嫌になりますね。

仕事辞めたい。

さて、山田詠美さん著「つみびと」の感想の続きですが、今回は私的な感情を多めにいきます。

それは違うよ!という解釈違いがあればコメントでお願いします。

まずこの作品の肝である問いかけは

「ネグレクトを誰が責められるか?(誰に責める権利があるか?)」

と、

「つみびとは誰か?」

の2つではないかと、読了した今感じています。

<ネグレクトを誰が責められるか>

社会が悪い、他人が悪い、母親は悪くないと言うのではありません。もちろん2人の子どもを死なせてしまった蓮音には一生償いきれないほどの罪があると思います。物語の中でも、だからこそ実刑がくだり、蓮音は漏れなく社会の批判轟々に晒されています。それは法治国家においては当たり前であり、仕方のないことでしょう。

しかし、なぜ事件は起きたか?ということは、決して蓮音1人の問題ではないことが読み進めるうちわかります。むしろこの作品は琴音を軸に話が展開するので、琴音に多少なりと責があることは最初から示唆されていますが、どうやら琴音だけでもないようなのです。

蓮音は前回の記事で書いたとおり、孤独な人です。困難に直面しても周囲に頼る術を知らず、自分だけではどうにもならないことをがんばって、がんばってついにどうにもならないと分かりどうでもよくなってしまいます。その不器用さを生み出したのは琴音の不在から来る家事育児の重労働であり、がんばれば道は開けると頑なに唱え続ける隆史であり、蓮音の頑張りに気付かなかった、気付いても無視をした周囲の大人たちではなかったでしょうか。

全く話は変わりますが先日ツイッターでこんなアンケートがまわってきました。(記憶のため正確ではありません)「学生時代以下のうち何個のことに当てはまりますか?」続く項目は

・学費の一部、全部を自分で支払っていた

・携帯代などを自分で支払っていた

・実家に金を送っていた

以上の項目のうち、全く当てはまらないか、1つ当てはまるか、2つ当てはまるか、3つ当てはまるか

というようなアンケートでした。

私が見た時点で何千人もの人が回答したところでした。

さて、どのような比率になっていたと思いますか?

全く当てはまらないと、1つ当てはまるで全体の約9割、2つ以上当てはまる人は全体の1割でした。

3つ当てはまる人だけで言えば全体の5パーセント、100人に5人というところです。厳密な調査とは言えないですが、まぁ少数派であることに変わりはないでしょう。私は学生時代この少数派に食い込んでいました。周りを見渡しても親の仕送りでリッチな暮らしをしている人ばかり。友達とカフェでお茶をし、やがては親の金で留学。かたや私はバイトと大学をチャリで往復し、学食の500円のラーメンがご馳走、ひどい時には電気代と水道代で究極の選択を迫られるような生活ぶりでした(水道を選びました)。そしてリッチピープルには私の暮らしぶりは見えないようで、ある時何気なく自分で学費を捻出していることを話すとリッチな学生に「聞いたことない!かわいそう!」とお言葉を頂戴しました。リッチピープルには見えていないのだということを痛感した出来事でした。1割じゃそりゃあ見えないよな、と今になり納得です。そう、大概の人は人の不幸や苦労には気づきにくいもの、私だって誰かの苦労を見逃し、あまつさえ「かわいそう!」と思考停止してしまっているかもしれません。その誰かは幸せそうに見えて、苦労なんて知らないように笑っておどけている蓮音かもしれないのです。

ネグレクトをする人の神経を疑う

ネグレクトするくらいなら私に子どもをくれー

本気でしょうか。ネグレクトをした人の人生全てを背負った上で子どもを死なせない自信があるのか、その自信はあなたの人生から湧いて出たものではないのか、と思うのです。

ネグレクトを責められる人はいないのではないか、なぜならネグレクトした人をあなたも私もネグレクトしているから。

他人に変わることは出来ない、他人の罪を正すこともまた出来ない。ポキっと折れそうな誰かを、誰かの苦労を感じ取れる想像力が求められているのではないか、自分もそうありたいしそういう人が増えるといいなと感じました。すっげぇ難しいけど。

<つみびとは誰か>

この作品を読んでいると女性目線からの語りが多いこともあり、女性の私なんかは隆史や伸夫に対してついイライラが止まらなくなります。なんだこいつはー!こいつさえ良識があればー!と思ってしまいます。出来るだけ自分とは立場の離れた誰かのせいにして安心したいという気持ちが働いているのでしょう。しかしそれは全く的を射ない怒りです。

少し前にハンス・ロスリングさん他による「ファクトフルネス」という本を読みました。この本は私たちの「現実」に対する数々のバイアスを分析的に紹介してくれる稀有な本でとても面白いのですが、数あるバイアスの中でも「犯人探し本能」というバイアスは私にとってあるある!と言わざるを得ないものでした。犯人探し本能というのは、何か良くないことが起こった時に真っ先に誰が犯人かを追求しようとしてしまう思考回路のことです。

例えば幼い頃、家の床にある片付け忘れのレゴを母が踏んでしまった時など、母はよく大声で

「もーーーーうっ!!!誰よーーーーっ!!!」

と叫んでいました。

そして静まり返った子どもたちを見てこう言うのです。

「ま〜た、犯人がいないっ」

私はこの2つを飽きるほど聞いて成長しました。そして私が飽きているのに飽きもせず「もーーーーうっ!!!誰よーーーーっ!!!」「ま〜た、犯人がいないっ」を繰り返す母を見て、子どもながらにこう思っていました。

「犯人を見つけたところでどうなるっていうんだ...」

もちろんただ怒られたくなかっただけですが、この気持ちはファクトフルネスによって思いがけず合理性を帯びてしまったわけです。

そう、犯人を見つけたって本当の解決にはならない。もちろんレゴくらいの話ならば犯人がしっかりお片づけすればいいだけの話です。しかしそうはいかないことの方がはるかに多い。罪を誰かになすりつけて終わらせるのではなく、犯人はいないと考えた上でどうすれば目の前の問題を解決できるのかと考えるほうがよほど建設的なのです。だからこそこの作品につみびとはいない、と考えます。蓮音は確かに罪を犯しました。しかし産まれながらのつみびとはいません。つみびとを生み出さないためにネグレクトがいかにして生まれ、いかにして放置され続けるか、私たちはこの作品を通して何度も目撃する必要があるのではないかという思いに駆られます。