安藤の丸善読書録

丸善で買った本の感想を書きます。

「むらさきのスカートの女」 今村夏子 冷静な感想

ついに夏が終わりますね。

グッバイキモい虫、キモい夏。

「生のみ生のままで」読み終えました。言葉にならない情念が湧いている状態です。読み終えた後の手応えは確実にあったのに、しばらく更新できなさそうです。

また言葉にできたら言葉にします。

今回は今村夏子さんの「むらさきのスカートの女」(朝日新聞出版)を読みましたので感想を書きます。ネタバレ多々ありです。ご注意ください。

【基本情報】

あらすじ:

主人公の「私」は町内のちょっとした有名人「むらさきのスカートの女」と友達になりたい。彼女はむらさきのスカートの女の行動を逐一観察し友達になる機会を伺っていた。ある時、むらさきのスカートの女が失業中であることに気づいた彼女は、むらさきのスカートの女が同じ職場へ就職するよう仕向け成功。むらさきのスカートの女と彼女は晴れて同じ職場で働くようになるが、はたして二人は友達になることができるのか....

語り:

主人公・権田(自称「黄色いカーディガンの女」)

構成:

主人公による一人語りで、時間も過去から現在へ素直に流れていきます。

【特徴】

・ポップで軽快な語りとは裏腹に怪奇的な内容

この作品、主人公がひたすらむらさきのスカートの女のことを観察し続け、むらさきのスカートの女に関する情報や観念だけを語る内容となっています。

主人公のむらさきのスカートの女に対する眼差しは異様なほど熱いのですが、その語りはポップでクスッと来るような軽快さを持っています。

例えば、主人公が自分のことをむらさきのスカートの女と対比して「黄色いカーディガンの女」と例える場面。

まるで大喜利のような言い回しの軽さに笑いを誘われます。

しかし、主人公のむらさきのスカートの女に対する眼差しの熱さはポップの域を通り越しており、もはや怪奇的とも言えます。

例えば、主人公はむらさきのスカートの女がいつからいつまで有職で、いつからいつまで無職だったかを観察により割り出し、メモに残しています。

さらに、後々むらさきのスカートの女が職場の上司と不倫関係を結ぶようになると、上司がむらさきのスカートの女の家に泊まった日も詳細にメモに残し、ついには毎週決まって会う日を割り出します。

そのようなことは、定職を真面目にこなしていては勤まりません。主人公は職場から無断で抜け出したり、遅刻することによりむらさきのスカートの女中心の生活を作り上げています。

この熱さは一体どこから湧くのか?なぜむらさきのスカートの女にそこまで執着するのか?という点は後々考えるとして、ここまでの熱はもはや怪奇的と言えると思います。

・「むらさきのスカートの女」という存在感の魅力

自分の子供時代を振り返ると、確かに近所にはいつのまにか呼び名を与えられ、好かれるでも嫌われるでもなく注目されシンボル化されてしまう人たちがいました。

おそらくは、退屈な日常のなかでランダムに選ばれた好奇心の的であったのではないかと思います。

それはいじめのような排除とは違い、近所のテーマパーク化というようなおもしろさの発見と内包ではないかという気がします。

(もちろん、勝手に不本意な呼び名を与えられた側からすれば、それは排除の一端であるととることもできるかと思います。)

つまり、誰もむらさきのスカートの女自身に興味があるわけではなく、むらさきのスカートの女がむらさきのスカートの女であること自体に勝手に価値を見出しているのです。

それは小学生たちの反応が一番鮮やかに示しています。小学生たちはじゃんけんで負けた人がむらさきのスカートの女に素早くタッチするというゲームを編み出します。

これではまるでむらさきのスカートの女が面白い遊具のようです。それは一歩ニュアンスを間違えると完全に排除の方向へ向かう行動ですが、そうではありません。

ある時タッチの勢いによりむらさきのスカートの女が手元のリンゴを地面に落としてしまうのですが、小学生は動揺しながらも「ごめんなさい」としっかり伝えます。

小学生たちは決してむらさきのスカートの女を邪険に扱って貶めたいわけではなく、その存在に純粋なおもしろさを感じそのおもしろさを尊んでいることが感じられます。

主人公以外の人々にとって、むらさきのスカートの女は近所の安い興味をそそるシンボルの域を超えないのです。しかし...

・主人公のストーカーの域を超える執着、なぜ???

近所の人たちにとってはただの興味を安いそそるシンボルであるむらさきのスカートの女。しかし主人公にとっては違います。

主人公がむらさきのスカートの女に抱いているのは興味ではなく執着。むらさきのスカートの女を観察して得られるだけの情報を得て、なおかつ接触の機会を作るため巧妙に立ち回ります。

そこまでして友達になりたくなるような魅力が、果たしてむらさきのスカートの女にあるのか?と、訝ってしまいます。

おそらく答えはノー。現実のむらさきのスカートの女は全くむらさきのスカートの女的普通を保って生活しているだけで、びっくりするような興味深さを持っているわけではありません。

つまり、主人公の頭の中でむらさきのスカートの女は勝手に興味深く、また特別な存在になっているだけなのではないでしょうか。

一見、めちゃくちゃ奇妙なこの現象、しかし私たちの日常にもたくさんあるよねと思わざるを得ません。

例えば私は恋人のことが大好きで、会うと一挙手一投足を観察し、ビール缶の開け方に趣きを感じ感動したこともあるのですが、先日よく知らない人が道端で同じ動作で缶を開けているのを見て勝手にガッカリしました。

特別ではなかったのか!と気付いてしまったのです。

美術館で現代美術の作品などを見ていてもあり得る事なのですが、例えばただのペットボトルだとしても美術品として展示されていたらなんとなく美点を探してしまうことって有りませんか?

物は物自体でもとから価値があるのではなく、見る側の姿勢が勝手に価値をつけてしまう場合がほとんどだと思います。

人に対しても同じで、こう見たい、面白いはずだ、という見る側の期待感が相手の価値を勝手に作り出すことがたくさんあるのではないでしょうか。

主人公の異様な視線の熱さを、私はそう解釈しました。

しかし一点気になるのが、ただ友達になりたいという動機がなぜそこまで温度を上げられたか、という点です。

これは主人公本人に迫る切り口ではないかと思うので次回にとっておきます。それでは近いうちに。