安藤の丸善読書録

丸善で買った本の感想を書きます。

「つみびと」山田詠美 冷静な感想

猛暑が続きますね。もう息を吸うだけでお給料ください、というヤバイ日続きですね。仕事やめたい。

さて、はじめての記事ですが山田詠美さんの「つみびと」(中央公論社)の感想を書いていきます。

感想と言っても実はまだ読了していません。p.270まで読みましたので4分の3というところでしょうか。

しかしパッションが溢れたので感想を書きます。

読了した後また改めて振り返りたいと思います。

では、読んでいきましょう。

<基本情報>

帯文 : 灼熱の夏、彼女はなぜ幼な子二人を置き去りにしたのか

帯文からかましますね、好戦的です

体裁 : フィクション

新聞に連載されていたということでノンフィクションかと思いきやフィクションです、しかし帯文の下に小さくある「ノンフィクションでしか書けない<現実>がある」という言葉がドンピシャなリアリティー溢れる作品です

あらすじ :

幼児2人が灼熱の夏の部屋に置き去りにされ、ついには死んでしまうという痛ましい事件が起きた。置き去りにした犯人は母の蓮音。蓮音は自首し、刑務所へ。この事件は大々的に報道され、蓮音は世間で「鬼母」と呼ばれ批判に晒される。ちょうどその頃、蓮音の幼少期に彼女を捨てて家出した母・琴音の家には報道陣が詰めかける。あなたも娘を捨てたんですよね、という報道陣の言葉から琴音は過去の自分の責任をただしていく。それは親子3代に渡る記憶を紐解くこととなる。

登場人物 :

琴音...蓮音(2人の子どもを置き去りにし、逮捕された母)の母。44歳。2人の子ども(桃太、萌音)から見ると祖母。蓮音が幼い頃に夫・隆史との生活に耐えられなくなり蓮音とその妹、弟を置いて家出した。幼少期に実の父親からは暴力を、継父からは性的虐待を受けていた。そのことが主な原因となりリスカを繰り返し精神的に問題を抱えるが、信次郎と暮らす現在は比較的安定していた。が、蓮音の事件をきっかけに取り乱しながらも丁寧に過去を振り返る。

蓮音...2人の子どもを置き去りにし死なせ逮捕された張本人。23歳女性。幼少期に琴音に置き去りにされ、以来隆史が再婚するまで弟と妹の世話をほぼ1人で行った。信念ばかりで何もしない隆史や面倒ごとを避ける周囲の大人の態度に物申す前に疲弊し、自分がもっとがんばらなくてはという強すぎる責任感が身についた。桃太と萌音の子育てで困難に直面しても周囲に助けを求めることなく自分を責めながら1人でがんばり続け、とうとう逃げ出すように子供を置いて出かけるようになる。刑務所に入ってから自分の人生を回顧する時間を得て、行きつ戻りつしながら自身を見つめる。

桃太...蓮音の息子、萌音の兄。4歳。桃太郎にちなんで桃太と名付けられた。4歳ながら祖父隆史の男は泣いてはいけないという教えを守り、辛い時でも涙をこらえる強さと子育てで手一杯になり感情が不安定になる蓮音を気遣う優しさがある。蓮音に対して従順で、純粋な親愛感情を抱いている。周囲の大人を冷静に眺めており、蓮音が家に帰ってこなくなった理由を直感的に恐らく理解している。

萌音...蓮音の娘、桃太の妹。3歳。モネの睡蓮にちなんで萌音と名付けられた。桃太とは対照的に、感情をこらえたり、言葉を選んだりすることはなく、泣きたい時に泣き笑いたい時にはとくに理由がなくとも笑い、天真爛漫である一方、蓮音を滅入らせることがしばしばある。蓮音によれば言葉の発達が遅れている。桃太の洞察によると、それは蓮音が子連れの友人との交友を絶ったことに起因する。

...あとは読んでみてください。

構成 : 3つの視点(母・琴音/一人称、小さき者たち/三人称、娘・蓮音/三人称)が1章の中で1回ずつ入れ替わる

※p.270現在(最後に構成のどんでん返しがある可能性もある為)

時間軸 :

母・琴音 / 起点は桃太たちの死が大々的に報道され家に報道陣が押しかける現在。琴音によるなぜ事件は起こったかという自問・自責と信次郎への語りをきっかけに次第に琴音の過去を幼少期→少女期→現在という順に辿る。現実的には現在→未来へとうつる。

小さき者たち / 起点は桃太の名前の由来である昔話桃太郎にちなんだ桃太の思い出(過去)。置き去りにされ次第に朦朧とする意識の中で桃太が思い出す出来事(恐らく順不同)を現実的には過去→現在(死)という大枠の中で辿る。

娘・蓮音 / 起点は刑務所にいる現在。蓮音の刑務所での回想が最も幸せだった音吉との出会い→幼少期→少女期→離婚→結婚直後というように行ったり来たりを繰り返す。現在の描写が少ない為現実的な時間軸は曖昧。恐らく現在→未来へとうつる。

私的考察ですが以下の点が特徴的だと思いました。

<エグいほどのリアリティー

というのも、冒頭1ページ読めばわかるリアリティー。こんな事件、確か昔あったよなぁと既視感を抱かせる設定の数々。例えはネットでネグレクトを調べればいくらでも出てくると思うので省きます。それだけ現実とのリンクが強いです、ちょっと目を覆いたくなるほどに。

登場人物の持つ設定や展開のリアリティーはもちろんですが、作品を陰ながら支えるディテールがえぐいです。例えばメディアの「鬼母」という比喩。絶対どこかの週刊誌が言ってましたよね、というほどしっくりくる言葉です。しかし余談ですが読み進めていくと蓮音が少なくとも最初は鬼母ではないことが分かっていきます。(というか、子どもを殺してしまった現在でも彼女は鬼母ではないのですが。)そしてさらにリアリティー溢れるのはなんと言っても子ども2人の死に際です。桃太は体が動かなくなっても意識がしっかりしていて、先に生き絶えた萌音の死体に蛆虫がわく様子を眺めています。それまではふわふわと記憶を前後させ自分なりに家族を語っていた桃太の何気ない視線が物語の緊張感をグッと上げます。

<「血」理論に対するアンサー>

虐待は連鎖する、淫乱の子は淫乱など世の中には数え切れないほど「血」理論がありますが、この作品はその理論をもとに始まりながらも、徐々に覆していく流れを感じさせます。例えば蓮音が、自分は与えられていない愛を子どもに与えようと奮闘する様子。一方の母・琴音は愛を与えることを断念し蓮音たちのもとから逃げてしまいます。

そして物語終盤、琴音は自分と蓮音の何が違うのか、という問いに辿り着きます。2人のしたことは一見同じように見えます。しかし琴音にはそれでもなお蓮音の気持ちが理解できません。なぜならふたりは圧倒的に違うからです。琴音は自分のために逃げる、という選択をしました。しかし蓮音はもう逃げるしかなかったのです。「血」ではなく、母たちの絶え間ない実務的努力により支えられている愛情。出来ないなりにもがんばろう、がんばろうと必死になる蓮音の努力は結局実を結ばないわけですが、少なくとも蓮音と琴音は全く違うということを印象付けます。

<ワンオペ育児の困難さと家という観念からくる人々の無関心さ、幸せ至上主義>

これまた蓮音を追うとよく分かるのですが、蓮音は幼少期の弟たちの世話からすでにワンオペ育児を迫られています。自らも幼いのに弟たちの糞尿の処理をしています。着るものにこだわる暇もなくいつも薄汚れた服を着ている弟たち。しかし大人たちは全く気づかないフリです。家という観念の中でDVやネグレクトをしかるべき人に見つけてもらうことの困難さを十分に伝えてくれます。 これはもちろん、桃太たちにとってもそうです。1枚の壁を隔てた向こうに今にも死にそうになっている兄妹がいたとしても誰も気づくことができない。 そしてその見えなさに拍車をかけているのが蓮音の幸せ自慢ばかりのブログや、幸せしか見せてはいけない、不幸は格好悪いという幸せ至上主義です。幸せな話しかできないからこそ、他人が不幸であることに対する気づきが鈍り、目の前にボロボロな服を着た子どもがいても誰も救いの手を差し伸べない、家という観念が人々を他人に対して無関心で無責任にしてしまい、さらに幸せ至上主義が家の問題にベールをかけてしまっていることをうまく風刺していると思います。

というところで今日はおしまいにします。

他にもたくさん魅力はありますが、それはエモい感想に書きたいと思います。

感想に対する感想、意見がありましたらぜひコメントをください。

では、また近いうちに。