安藤の丸善読書録

丸善で買った本の感想を書きます。

「むらさきのスカートの女」 今村夏子 まだまだ暑い感想

こんばんは、まだまだ暑いですね。

前回はむらさきのスカートの女に注目して感想を書きましたが、今回は主人公・黄色いカーディガンの女に注目していきたいと思います。

・自意識の表出の少なさ

まず、先にむらさきのスカートの女について書いた理由について説明させてください。

それは、この作品を読みきった後に一番印象に残るのは間違いなく主人公ではなく、むらさきのスカートの女だからです。

確かに他の作品においてもそういうことはあります。主人公よりいぶし銀な脇役に目が向いたり、ヒロインに目が向いたり、素晴らしい作品ならば起こりうることだと思います。

しかしこの作品における、むらさきのスカートの女の立ち方は、もはやその域ではありません。物語全体がほぼむらさきのスカートの女でできています。

むしろ、主人公いたっけ?と読者に思わせるほどなのです。

それはむらさきのスカートの女のキャラ立ちというより「主人公の不在」と言えます。

前回の記事で書いたように、むらさきのスカートの女自体には強烈なキャラクターはありません。

むしろそれを見る主人公の強烈な「見方」によってあたかも興味深い人物のように描かれ、読者もむらさきのスカートの女に興味を抱いてしまうのです。

なぜそのようなことが可能かと言えば、主人公の自意識の表出が極端に少ないからではないかと考えます。

主人公は作中でほとんど自分から自分の身の上の話をしません。

というか、人と話すシーン自体ラストのむらさきのスカートの女との会話と上司との会話以外ほとんどなかったと思います。

人と話すシーンがあまりない以上、読者が主人公のパーソナリティを把握するすべは語り方や語る内容を読み解くしかありません。

しかし主人公が語るのはむらさきのスカートの女のことばかり。むらさきのスカートの女を語るためにおこぼれ程度の自分に関する情報を織り交ぜるくらいです。

ここまで読んで、いやそういう作品他にもいっぱいあるよ、と思ったあなた、確かにそうですよね。

主人公の顔が見えない作品はほかに山ほどあります。しかし、この作品では感情の欠落がさらに見えなさに拍車をかけています。

どんなに受け身な主人公だろうと、必ず嫌悪感や怒りや悲しみによって自意識の表出をします。自分語りをしない主人公はしばしば明の感情ではなく、暗の感情によって物語に起伏をつけるものです。

なぜなら暗の感情は出すものではなく、出てしまうもの。それが自然なことなのです。

しかし、この作品の主人公は暗の感情すら表出しません。というか、表出すべき感情すら持ち合わせていません。

あれだけ執着していたむらさきのスカートの女が去ってしまった後も、じたばた悔しがったり悲しんだりすることなくただしんとしてその帰りを待ちます。

その淡々とした様子は悲しみを堪えていたり、自分をごまかしていたりするのとは違って見えます。

感情が欠落しているのです。

私はこの作品を勝手に「コンビニ人間」の先だと位置づけています。

どちらも素晴らしい作品で比べることなんてできないし互いに違った良さがあるとは思いますが、無気力・無感動については「コンビニ人間」よりこの作品が先っちょではないかと思います。

コンビニ人間」では主人公は無感動に見えてコンビニという一点に関しては並々ならぬ感情の起伏を魅せます。知らないコンビニで棚を整理し出すところなんて狂ってますが、狂っているということはまだ感情を持ち合わせているということでもあります。

心があるから痛いんだよね。

しかし、この作品において主人公は終始同じテンションです。だからこそ読者は振り回されることなくラストまで安定感を保ったまま読み終えることができます。

そして読み終えた後も感動したり感情が消耗したりすることなく、冷静におもしろかったなと感じます。

一見すると良いのですが、主人公だけをじっくり眺めてみると途方もなく異常であることに気づきます。

主人公は終始、むらさきのスカートの女を冷静に定点観測している学者のようです。

そしてその主人公の姿は私たちの無感動を百倍濃縮したようにも見えます。SNSで誰かが痛い目に遭う動画をみて笑いも泣きもせずに👍を押したり、道端で喧嘩をしている人達がいたら止めに入ることなく動画を撮りはじめたり、芸能人のゴシップ記事を好んで読んだり...

主にスマホとネットを介して広がるとてつもない無感動と無責任な好奇心。その先にあるのはもしかすると、この作品の主人公の迎えた結末かもしれません。

・見る側から見られる側へ、繰り返される消費

そう、そしてラストでは今まで見る側だった主人公がついに小学生たちから見られる側にすり替えられてしまいます。

しかしそれはある意味救いのようにも感じられます。

主人公は職場でも恐らくは無口すぎて存在を認識されていない状態だし、近所づき合いや友達もありません。

つまり、孤立しています。その孤立はむらさきのスカートの女の監視という歪んだ発露へと向かいます。

主人公は孤独を愛しているのか?自ら孤立を望んでいるのか?

恐らくは違います。彼女はむらさきのスカートの女に並々ならぬ好奇心を注ぐこと、友達になりたいという希望を持つことにより何らかの形で世界と接触しようと試みているのではないでしょうか。

(そういう文脈で、主人公はむらさきのスカートの女を近所で孤立している仲間として捉えていたかもしれません)

そんな試みも失敗に終わり、むらさきのスカートの女は事実上去ってしまいます。

いよいよ主人公は世界との繋がりを断たれてしまいました。しかしそんな時、懐かしい小学生の遊びが復活するのです。

そう、主人公はついに「黄色いカーディガンの女」として可視化されるに至ったわけです。(もし幻想でなければですが)

このラストは一体何を指しているのでしょうか?

私は現代的透明人間に対する救済という側面と、皮肉的な好奇心の消費という側面があるのではないかと思います。

まず、現代的透明人間は無感動なためにどんどん人に認識されなくなっていく人たちです。馴染みのある言葉で言えば、サイレントマジョリティー。感情を発露しないために人から認識されなくなり、人から認識されなくなると孤立を深め、余計に感情を発露しなくなる。そんな人たちにとって、たとえ安い好奇心の対象としてでも、誰かから注目されるということは一種の救いだと思います。なぜなら不本意な形であろうと、共同体の一員として認識されるからです。透明でなくなることは彼らの孤独を緩和するのではないでしょうか。

一方でそれは多分に皮肉的な要素を含んでいます。なぜなら、無感動に共同体の中の道化を消費する側だった彼らが、今度は道化になり消費される側になるからです。

そしてその循環は決して共同体の中の善からなる意思によって作られるのではなく、無感動を満たすための安い好奇心によって作られています。

それが示すことは、道化になっても彼らの孤独感が満たされることは一生ないということです。

たとえ道化として認識されたとしても、彼らのことを心から知りたがる者は周りにはいません。

なぜならみんなが無感動の循環の中にいるからです。他人に対してもまた、感動することなどないのです。

そして感動を伴わない接触は誰のことも本当の意味では救いません。こうして消費する側もされる側も孤立を深め続ける社会になってしまうのです。

ちゃんちゃん。